raingoesup

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左の種

昨日は感じることが少なくなったと書いたけれど、今日は感じることができたように思う。

 

電車の中で聴く音楽が、光を放っていた。そこにいるという認識よりも音世界のほうが大きくなって、自分の立っている場所がわからなくなった。視界も少し明るくなったような感じがした。大きな音で聴くこと、意識を傾けること(どちらかに振ってある場合はそっちに目を向けるようにするとよくきこえる)、あとこれは邪道かもしれないけれど、イコライザを適切にかけること。こういうものによって発光は促されていたから、工夫は絶やすべきではないらしい。

一つ一つ虫を殺すように大人になっていく

こともなく最近は特に何も考えていない。

平日はしっかり研究をして、土日は休むという生活をしてみようかなとか、もうすぐ出ると決まっているライブだけれど準備してないなとか、着る服あんまりないし買いに行くかとか、金は無いけどできればこのままのペースで行きたいなあとか。そういうものぐらい。

 

今日は先に述べたように「休む」ぐらいだったので映画(『ダイ・ハード』)を見たりドラムの採譜をしたりゲームの動画を見たりして過ごした。

 

コンテンツに触れて、その世界に没入するような感覚は歳をとるにつれて無くなってきた。その没入というものには、作品に触れると自動的に自分の中に無意識的な妄想が構築されるような感覚をともなっていたように思う。その感覚を含めて、「感じる」ということが受動的に生起されなくなった。

なぜか。感動の中心たるべきところではない場所で些細なことが気になってしまって冷めてしまっているのかもしれないと思う。

 

反対に、わからなかったものがわかることによって、面白いと感じる機会自体は増えている気がする。けれど常にどこかは冷めている。

 

もう諦めて、見え始めた別の楽しみ方に完全にシフトするべきなのかもしれない。けれど、癖のように試みる。

間違っている気がする。どう楽しもうが間違いではないのだろうけれど、その感触にこだわって、却って思考が阻害されたり時間が空費されることは本意ではない。

 

何も考えていないことについて書くつもりだったけれど、話がそれた。けれどこれも少しは関係があると思うから、悪くはない。

見えない名前

木曜

旧友と会った。

僕は今野性爆弾のくっきーの動画をよく見ていて、若干その芸風になっていた。ちょっときついのでもう少し別の形になりたい。

 

金曜

panpanyaのTシャツを着て研究室へ行った。

高かった割にあまり着ていない、というかいつでもどこでも着ようというデザインでもないし、靴など他のものとの兼ね合いもどうなのかなどと考えあぐねていたが、とりあえず割とどうでもいい場面で着てみることにした。

下は基本黒いチノしかないので固定で、靴はサンダルだった。去年まではサンダルで学校へ行くという発想もなかったのだが、今年になって研究室にいることが多くなり、その時間の楽さも考えるとサンダルもありかと思ってやってみると、疲れにくかったので最近はよくこれをしている。もう若干寒いときもあるが。

閑話休題。なのか。その個性的なTシャツにサンダルという格好はいかにもゆるいサブカルおじさんという感じだった。まあ多分そんなきちっとしたものが自分にあるとも思えないし、中身相応という感じなのだが、電車に乗っていたりするとそれを強く感じる。他人の目線を意識したことによって、その自認がニョキと生まれる感覚は割と新鮮だった。他人の目線など存在しないということは置いておいても、ありそうでなかったもので、まあよかったですね。

 

土曜

寝起きが悪かった。

掃除やパソコンのメンテナンスなどをしていたら夕方になってバイト。

夜はドラムの採譜の練習をした。なんとなくる*しろうをぐぐったら菅沼孝三と菅沼道昭が別の人物だったということを知って、その後菅沼氏によるドラム採譜動画を見つけ、した。

 

珍しく固有名詞の多い記事を書いてしまって少し気持ち悪くなっている。

魂の昼

今日は調子が悪い。変な夢を見たせいかさっき髪を切ったせいか低気圧のせいか。向井秀徳は不調を歌ってどうするみたいなことを言っていたけれど、僕は歌ってしまう。

 

起きて洗濯をしたのち髪を切って銀行で学費(と大学院の入学予約金)の振込みを済ませてほうれん草焼きそばを作って食べてコーヒーを飲んで家を出た。今日もこれからだ。

夢の出口

朝起きてバイト。挙動は安定している。

昨日山へ行ったりした疲れが残っていたので、そこまで言って委員会NPを見た後昼寝をした。

 

今は無というか、中性的な状態にあって、少なくともこれは木曜日まで続くだろう。

何かに憑かれたように文章を書くような状態ではない。

魂の座

朝学校行ったら奴と2人だけになってしまった。

ここまで精神を汚染されてしまうのは何かしら対策をとるべきなんだろうけれど、考えたくもない。考えさせられることが一番の汚染なんだ。

 

じゃあ数分だけ。僕はああなりたくない。そういう愚痴をこぼすこと自体そうである。他人が悪だときっちり仮定して、その上で自分の中だけでいろんな感情に折り合いをつけること。彼の態度がいかなるものであっても、自分の態度がそれによって侵されてはならない。いや、これは極端である。

別に嫌われたって折り合いが悪くなったって、かまわない。彼の態度がいかなるものであっても、その他の人に対する自分の態度や自分自身の生活がそれによって侵されてはならない。

彼以外はどうか。家の中にも同じような問題が転がっている。これも先と同じように構えずいればいいとは思うけれど、もう少し優しさを持ってもいいと思う。

他人と自分を同時にいたわるような優しさのありかた。もう少しだけ優しく考えてもいいんじゃないか。

奴と家では、それが少しでも優しさを持とうとしているかどうかという違いがあって、それに応じて自分は変える必要がある。似ているからといって、同化して脳に取り込んでいては、頭が腐るばかりで何もいいことはない。

川床の虫

外へ出て、例えばレンタルDVDの棚の前をうろついたところで、ちょっとした緊張感とそれに付随する楽しさみたいなものがなくなってしまった。家にいるのと同じぬるっとした既視感が、なかなかぬけなくなった。これが正しいようにも思う。

 

今日は帰りに文化ホールの前の広場へ寄って発泡酒を飲んだ。石でできた美しい空間で、近くの街灯やマンションの明かりが水路に映るほかは、薄暗い。まだ7時台だったのもあってか、部活の服を着た中学生が遠くで戯れていたり、よくわからない大人が佇んでいたりした。

外で飲むのは気持ちがよく、気分転換になる。大声を出すのと同等ぐらいに。鴨川まで行くのは金がかかるけれどここならそれもない。

まあでもここもいずれ家みたいになってしまうのかな。そのときはまた別の場所へ向かえるだろうか。