raingoesup

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不穏な感じだった。終始なんだか問題ありげな雰囲気が付き纏っていた。やることを落としては無いと思う。不穏な感じが、考えが間違っているのではないかという気持ちを増幅させてくる。まあただ、落ち着いて、安心している風で進めて行かないと結果的に間違うリスクが高くなるので、意識の振り方の方向性としては、落ち着くことにする。

落としてはいない。それなりに人々との交流があった。閑散とした研究室で、世間から切り離されているような感覚があったが、やることはやっているはずだと思う。

bandcampでアルバムを2つ落とした。明日の行き帰りにでも聴こうかと。ところで最近は、イヤホンなしでの外出は考えられなかった自分も変化して、外出中はあまり音楽を聞かなくなった。多少鬱陶しくても、電車の中や街の中の空気・人の話し声を直接浴びることは、他人とのチューニングを合わせるのに重要な役目を果たすと実感するからだ。一方で、音楽の接し方として、外で風景と組み合わせて幻聴を誘発するというのも重要な形の一つであると考えていて、そのあたりはバランスをとっている。まあ、また新学期が始まったりで、最も苦手な本学の学生の喋り声が主な摂取対象になれば、割合は変わってくるのだが。

色々なことが浮かんできて、書こうと思ったけれど、白い画面を前にしてすべてがニュートラルに落ち着き消えた。正しいのか。疑問の記号を使う大袈裟さも、大袈裟すぎる感情表現に思える。

多分これからしばらく、月並みで程度の低そうなことしか言わなくなると思うが、それが精神的に一番良くて、穏やかなことだと思う。仕方の無いこと。自然。不可抗力。自分の存在は自分が思うようなコンテンツにはならない。この言葉も、後の記事を読む人間の大方には届かない言い訳である。そもそも程度が月並みに低そうで月並みなんだ。

一日一日、やるべきことを確認して、それだけ落とさないということができればよしとする。よしとしなくても、悪いということはないが。最近目にした「できればやる」という座右の銘をテンポラリー座右の銘にしてやっていきたい。やっていきましょう。

今日も同様。見識は広がったし、自分自身の振舞い方も昨日より良くなった。先生はDebianになっていた。

やれていることがある一方で、やれていないことや失敗によりやや傾いた未来があるという状況。重要な時期でありもっと焦ったほうがいいかという念も当然湧いてくるのだが、慌てる気にはならない。やることを、やるときに、捻じ曲げずに、悩まずに消化することにしか関心がない。

今日も合説。反省は終わっており特に書くことはない。研究室で先生がうんうん言いながらubuntu 18.04 LTSと格闘してるのは最近の印象的な風景となっている。社会のごたごたを感じた後だと、そういうものがとてもなつかしく、いとおしいものだと感じる。

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語彙が良くない。箇条書きで色々済ませてしまっているせいか、先輩のゴミみたいな修論を熟読しているせいか、元々なのか。無い語彙は無いのだけど、こうもしっくり来ないものだっけ。

2日間まともに外出していなくて今日合説に参加するのはやや不安なところがあって、事実最初は本調子でなく、周りの声で説明が聞こえないことでだんだんと意識が薄くなっていくような症状が見られた。2社目ではひどく部屋が乾燥しているのが気になった。しかし3社目で普通に質問することができたので良い。4社目は個人的にはそんなに興味は無かったが、そういうのもあるんだねというのが聞けて、参考にはなった。薄ぼんやりとしているが、興味のある会社も見つかったのでよしとする。