raingoesup

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まあ問題ないんじゃないか。活動するほどに自分がそこにいる実感はなくなっていく。実感ってなんだ。そこにあるとしたら、そこにあるだけだから、それ以上の感覚なんてないだろう。メタ認識?それって実感が指すものとは違わないか。これはすべて覚えたての言葉遊びです。存在の疑わしい粘土をこねているだけ。

伴って欲しい実感もある。自分は今一生の岐路に立たされているとかいう。語尾に無関心が滲んでいますよ。いや実感がないのだからそれくらいがむしろ正しい感情だとは思わないか。

 

狂った仮定で保留にし事なきを得ていた対象に関する感情は、保留の末にまあそれなりに落ち着いた。強い気持ちも、意識に上らなければ忘れてしまえるのだ。まあ、就活全体に対する意識が落ちていただけで、また意識がそのレベルになれば甦ってくるのかもしれないけれど。今日は慣性でとどめておく。眠れなくなりそうだから。睡眠は大方の何よりも尊い。としている。

狂わない仮定で、それなりの正確さを伴った判断で保留にしていた件については、期限が迫ってきて正常に焦りをもたらしている。正常というのは、事象が持つべき効果として正常であるということであって、自分の時間感覚とか決断の時期が正常であるというのではない。わざわざ注釈をつけたのは、そのものがそうでそれを表さないといけないということもあるけれど、片方が正常でないことを明確化しなければならないと感じたからだった。

何もわからないのでとりあえず出てきた言葉を使って、意味を後で補強する形で、何か自分の感情にそぐうような文章を書こうとしているらしい。こういう思考があってもいいですか?

先述したような具体的な懸案事項があって、その決定に役立てばと思って考えているのだが、どうにも抽象的な話しかしてない。終わり。

おじさんの件は問題ありませんでした。一人で食堂行って飯を食べる。学部生のときより、周りのノイズが気にならなくなっていて、箸を持つ手を震わせながら、幸せそうに、いつもより健康な飯を食べ、幸せをかみしめる。しっかり食べて頭を回転させてやるぞという気持ち。ソースカツ丼、オクラ、小松菜のわさび和え。

作業は捗っているように思う。しっかり食べたことと、思考の手続きをつかんだこと。それから、久々に最後まで本を読んだことが良い影響を与えたと思う。読むのをやめようかなと少し思っても、ページをめくればもう少しで終わりだということがわかり、一気に読んでしまうその感覚。プログラム読むのも、思考をつめるのも、ちゃんと終わりまで辿り着く。当たり前のことなんだろうが、いまいちつかめていない感覚。

夕方は会話が少し乱れる。まあ。

就活も頑張るんだけれど、また問題が甦ってきて手がつけられなくなる。つらくなる。

それでどうするかというと、またありえない想像をして、狂った仮定をおき、問題を当面よいものとして保留するということで、心の平穏が確かに訪れる。なんなんだ。

普通はきっと、もっと高次元な納得を当たり前にしていく。こんな風に何回も同じように精神を騙したりするか。

いやもしかしたらするのかも。ありえないかどうかということを問題にしなければ、これはこれで高次元な動きにも見える。しないか。

高次元なものとすることで、心の平穏がまたわずかに補強される。

 

 

まあ明日はそんなに憂鬱なことはない。体感としてはそう思っていないが、事実はそうだ。おじさん一人に怒られることが確定していても、別に大した問題ではない。おじさん一人の評価はおじさん一人のみであって、他に直ちに波及することはない、というのが最大の理由だ。朝早く起きないといけないとか、多くの学生の前に姿を晒さなければいけないとか色々あるけれど、割のいい仕事であることを思い出せば、比較的容易に精神的折り合いをつけることのできる事項だ。

小説やアニメを見た後に、読後の爽快感を引きずったり、その後の思考文体がその主人公のものっぽくなったりというのが少なく、これに限らず、そういう入り込めなさが、今の幸福感、充実感の不足に繋がっているような気がしている。

ところで今の自分の思考文体ってどんなだろうと思うが、これがまあ最も近いのだろうな。拙いが、本当はもっと、簡単に推敲できない分雑然としていてより拙いと思う。これは脳の構造なのか知らないが。頭の中だけで考えるというのを皆やってのけるけど、全然無理だ。まあそれはそういうものだとして全然やっているので放っておいてほしいと思うけど。

思考文体の話だ。これはまあ特定の何かに一時的に寄るということは少なくなったにしろ、まあ入力されてきたものをちょっとずつ取り込んで、まだ変化の途中にあると思っている。その変化を、外乱に左右されず制御するというのは難しいから、気に入らない言語に晒されることはとてもだるいというのは、大学入学してからずっと思っていることだ。

今日本を読んで、考える方法が分かったけど、今の問題からしてそんなにじっくり考えることもない、と思ったのだが、しかしまあ考えようと思えば考えられるのかな。全く変わらない景色に美しさを見出す方法とか、さっきの話で言うと、自分なりの言葉を持ち続ける方法とか。そうかもしれない。ただ、現状の優先順位は低くて、消え去ってしまう。いや、ずっと思っているのだから消えていないはずなんだけれど、いい結果は得られてない。

ただここでやっと考え続けるときのイメージが分かった気がするし、意味を持つなら、どこかで考え続けたいと思う。

そんな様子で考えていることがあるなら、やることがあるなら、こんな泥の心になることもない気がする。根本的問題に触れず、様子が明るくなったところでまたこんど。

あまり調子は良くない。常に何かが詰まったまま、晴れない思考で漂っている。書きたいことも何も書けない。何もないし、時間もわからないし、受け答えや振る舞いは的を外している。空。

大袈裟になるのが正解なのか?そうやってまた騙されるのを知っている。(騙されるという表現は適切ではなく、ただ勝手にやっているだけなのだが。)いや、ただふぬけているよりはそういうほうがましなのか。

正しくないことを気にしないまま何故か進んでしまったり。それは他の正しくないことにもっと気をとられていたからかもしれない。または、単なる就活躁。そんなんで、残っているものは全然正しくない。

だんだんとその存在が明らかになってきた、明晰と不明晰のサイクルの不明晰のほうにいるのだと思う。不明晰ならそのこともよくわからない、明瞭にはわからないだろうけどね。

東京行ってなんやらあって帰ってきてプレゼン面接行って説明会行ってひよこ豆のカレー食べて、東京のがだめだった連絡来て、何故か受かっていた連絡も来てでもそんなにそれはどうでもよくて、それはホワイトでも、ホワイトだからこそ自分には合わないだろうな受かる可能性も低いだろうな、というものです。

数日前の一件はかなり落ち着いてきていて、それはプレゼン面接の反応がよく、そういうケースではまあ楽しくやれるのではという可能性が一つ増えたから、ということなんだろうなと思う。

酒を飲んでいるからです文章が流れるように崩壊しているのは。そんなわけで、少し落ち着いた状態で、世間は連休ということで気の張る就活タスクも直近には控えておらず、ということで休みモードで土日に突入し、結果的にはドブを二日分生成したのだけれど、まあ立て込んでいたしこれくらいはしょうがないでしょう。一日目はほぼゲームをしていて、眠るのが上手くなった。二日目はたくさんギターを弾いた。理解できなかったリズムを取り込み、再現することができるようになると、頭が少し良くなったような錯覚を覚える、というか、世間一般での用法とは多少異なるにせよ、本当になっていると言えると思う。本当に緻密なことを、世界認識を、人とのふれあいを、あたりまえのようにやってのける営みは、本当に不器用で迷惑な人間にとっては、ある種近寄りがたい、というかやはり近寄ってはいけないのだろうなという念を抱かせられる。それでもなお、一人のうちには、可能な限りできるようになって、いつかを迎えられたらと思う、いやそんなことはどうでもよく、ただ自分が、知りたいだけで、それでいいだろうと思う。変な希望の持ち方は、最近自分が大きく落ち込んだ出来事のきっかけであるので、不用意に持つことは避けて、ありのままの今を、それのみを楽しむことのみをするべきだと思うから、そういう結論に至る。

断ってしまったけれど、その数秒後には、それこそが自分が理想的に収まれる場所なのだったと思った。何にも存在していないように見えて、やっぱり思考の核はあって、けれどもそれが全然隠されていて、失うような大きな衝撃によってのみ明らかにされる。

全く嫌になる。こんなことばかり24年もやっていて救いがない。他人に悪意を向けられて失敗することなんて全く無く、ただ自分の不完全な性質で、勝手に落ち込んだりなんやりしている。次なんてもうなくて、ただそれは虚しい気持ちと大きな違和感を残したまま、何かやっていかないといけない。気の持ちようでも、それに関することはもうどうしようもない。だからこそ考える必要はないと言い聞かせるのだけれど、そんなに何度も、無理矢理納得できなくて心身にただ歪みが蓄積されて醜くなっていく。醜くなるのは端的に言ってつらいです。そこには明らかに、今後ずっとつきまとう不可逆の変化があるわけだし。

くだらない悩みです。でも十分醜くなるんです。元々自分の中にあった醜さがだんだん表出していると捉えたほうが正確かもしれない。昔からどうしようもなく歪んでいたのだから。

そう気負わなくていい。もうとうに死んでる。それでもゆるやかな希望を見かけて、もしかするといやきっとと、イメージを膨らませて、意味不明のきっかけで絶って、結局落ち込む。無理な話らしい。気負わないことすらも。

それはそういうものだ。仕方ない。楽しんでやっていきましょう。