作ろうとすれば、その曲のイデアの存在が見えかかる。
―お二人の作曲論もぜひお伺いしてみたいのですが。
WEG:作曲するときとか、音楽理論のことではなく出す音の正解ってあるよね?
Serph:そうですね。音同士が引き付け合うような。
WEG:そう、その感覚。結局アレンジとかミックスも全部そうで、「この音とこの音はこのぐらい」とか、何か正解があるんだよね。
Serph:イタコっていうか、最初の「音楽に捧げる」っていう話ともつなが ると思うんですけど、作品が求めてる音楽輪廻みたいなものがあって、「こうじゃないとダメだ」って、音同士が引き付け合うのに従う道具として、自分の体や 技術がある。それが「捧げる」っていうことだと思うんですよね。
あるのに、もったいない。僕はその数瞬も具現化できない。
見えかかって、でも手は届かない。見えているうちに伸ばそうともしない。
それは自分が一番逃れたい、矮小な生き方なんじゃないのか?
僕が彫った雑感は僕にしか想像の余地も無いのかもしれない。
「この木である」と言いながらそれとなく飾る。人にも見えるところに。
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ブログ記事もほんとはどっかに埋まってるんですかねこれは?
この木を、なんかが埋まってる木を、ZAIMOKUを、昆布みたく煮たらもしかするとズズッと出てくるダシがありましたら、あるいはそれでもいいかもしれんけどね?それをインスタントラーメンの汁に混ぜて、食らうというのも、これまた嗜好品なわけで。