raingoesup

「中高生のときやりたかったブログを今やる」

日記

・何もかも中途半端。何かを捨てることなんてできない。

・捨てるのではない。捨てられる覚悟をするのだ。

・騒音を拒絶する力を利用して集中する。

・日本語と英語の間に非言語帯が存在する。

 

記録。ここに書いていることなんてその与える印象がネガだろうがポジだろうが所詮はすべて言葉遊びにすぎない。思考自体言葉遊びにすぎない。

言語化できないイメージを明確に思考に取り入れることができるという点でAIは人間に勝っているような気がする。

音楽や絵、書などと比べると言語はとても一般的で庶民的なものだ。皆ままならなないながらもそれなりに使ったり、使っているふりをしたりできる。最初は音、次に文字の形になって、それを組み合わせて思考を成り立たせている。へえ。なるほど。

画像と音像と言語像、これらの境界にもそれぞれなんらかの共通イメージがある。言語でいうと像とは?そもそもさっき書いたように音から発展して視覚情報になったものを他のものと等価に捉えていいの?と思いつつも調べたら大好きウィトゲンシュタインが言語像という言葉を使っているのを見つけて、満足して使った。

(前略)すなわち、言語に含まれている語の一つ一つが何らかの対象を名指しており、文章はそのような名称の結合である、というのである。この言語像のうちに、次のような見解の根源があるといえよう。すなわち、どの語も一つの意味を持つ、この意味と語との間に対応の関係がある、意味とは語が代表する対象のことである、というものである。

 でもこの文脈だと「言語という概念を捉えるイメージ」として使われていて、さっき意図したものとは違っている。またここでイメージなんて言葉を使ってしまうと余計にややこしく感じるけれど。

「ある言葉が指し示すイメージ」を言いたかったのだけれど、どうやらそれは「意味」というべきなのかもしれない。言わないべきかもしれない。