少し寝すぎてしまった。正確にはこれは二度寝の結果で、最初に起きたときは軽く寒気を感じて風邪の気配がしていたのを、これによって解消できたのでまあいいとする。
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亡くなった祖母や知らない怖い人や分厚すぎる携帯電話が夢に出てきた。あとは、車の窓から覗く、夕日で黄色くなった国道沿いの看板。少しイメージが古い。
我が家の老いた犬もこんな古い夢を見ながら今寝ているのかなとなんとなく思った。
誰も来ないので休講か教室変更と思って席を立ったら教員がやってきた。
ほかの者のうち一人は海外へ行ったという情報が入っているが、もう一人はすっかり消息を絶っている。
教員ひとりと愚禿ひとりになってしまった。
ふだん授業と関係のない話を延々とされると嫌気がさすのだが、1対1の場合は完全にインタラクティブになるので嫌な感じはしなかった。遠出をして心が軽くなったのもあるかもしれないが、笑って話せた。
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そのほかの時間はずっと4:3の中にうまく文字や絵を入れる作業をしていた。
18pt以上は厳守したいし、囲める意味は囲んでしまいたいし、それもエッジが立つ方法だと視覚特性上ノイズになるので色をつけて最背面に置きたい。なによりとにかく、ぱっと見で何も入ってこないことがいちばんつまらなく感じる。
まともな美意識に籠れるなら籠りたい。今はそれが隣の無粋に立ち向かう、また己に立ち向かう唯一の殻のように感じる。
混沌はこうやってインターネットの汚泥の底にでも吐き出しておくに限るだろう。
・何もかも中途半端。何かを捨てることなんてできない。
・捨てるのではない。捨てられる覚悟をするのだ。
・騒音を拒絶する力を利用して集中する。
・日本語と英語の間に非言語帯が存在する。
記録。ここに書いていることなんてその与える印象がネガだろうがポジだろうが所詮はすべて言葉遊びにすぎない。思考自体言葉遊びにすぎない。
言語化できないイメージを明確に思考に取り入れることができるという点でAIは人間に勝っているような気がする。
音楽や絵、書などと比べると言語はとても一般的で庶民的なものだ。皆ままならなないながらもそれなりに使ったり、使っているふりをしたりできる。最初は音、次に文字の形になって、それを組み合わせて思考を成り立たせている。へえ。なるほど。
画像と音像と言語像、これらの境界にもそれぞれなんらかの共通イメージがある。言語でいうと像とは?そもそもさっき書いたように音から発展して視覚情報になったものを他のものと等価に捉えていいの?と思いつつも調べたら大好きウィトゲンシュタインが言語像という言葉を使っているのを見つけて、満足して使った。
(前略)すなわち、言語に含まれている語の一つ一つが何らかの対象を名指しており、文章はそのような名称の結合である、というのである。この言語像のうちに、次のような見解の根源があるといえよう。すなわち、どの語も一つの意味を持つ、この意味と語との間に対応の関係がある、意味とは語が代表する対象のことである、というものである。
でもこの文脈だと「言語という概念を捉えるイメージ」として使われていて、さっき意図したものとは違っている。またここでイメージなんて言葉を使ってしまうと余計にややこしく感じるけれど。
「ある言葉が指し示すイメージ」を言いたかったのだけれど、どうやらそれは「意味」というべきなのかもしれない。言わないべきかもしれない。
今日は昨日よりはいい日だった。
・ある文脈があっての発言だけれど、諦めは覚悟と同義と言っていた。
・自分は自分の惰性をまだ諦めきれていないということになる。
・いますぐ寝て、明日の自分に託してしまいたい。
・永遠に終わらない六月がまたやってきた。
・週末に遠くへ出かける。そのうちに頭が狂って行方不明となるようなイメージが想起される。
・「あらゆる人間に適材適所があるのならあいつが納まっているべき場所は」笑えない。
定量性という言葉は、ものごとにおける、そのものごとを量的に考えられるかどうかという性質という意味だと思う。今日は「定量性に欠けている。」という書き出しをしようと思ったけれどこの場合意味が合っているのかどうか自信が無くて、こうなった。
善意か惰性か知らないけれど、今日は二時間ぐらいを奉げてしまった。このことは多分間違っている。
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悲観する時期ではない。飽きるとすれば工夫が足りていないからだ。
諦める理由はある。どちらが面白いかはわからない。今はこの苦労に乗ってもう少しだけ思考の限界を広げたいと思う。もう少し。これは知性をかけた持久戦のような、けれどもエンディングは複数あって、バッドエンド以外ならよい。いくつかの場所に即死イベントがあることに注意することにする。