raingoesup

「」

朝から相当気分が沈んでしまっていた。顔が死んでいたと思う。今日は祝日だし誰にも会わないだろうからまあいいかと思ってそのまま学校へ向かったら、研究室には結構人がいた。えーと思いつつもそれなりにコミュニケーションをとれた。ポスターを練習で使うために、本来A1のものをA4の9枚に分割して印刷してちゃんと文字がつながるように余白を切って貼り合わせるというまあまあ無駄っぽい作業を集団でしていたら心が洗われた。はさみを持って図工のようだったので皆はワクワクさんの話をしていたけれど、これも多分そういうことなんだろ。

音楽の話が動き出した。もう少し格好良く復帰したいとかどうでもいいことも考えていたけれどそれはまあもう大分どうでもいいな。今度こそ本当にストイックにいく。ちょうど歌ってくれている通りの精神性があればできそうな気がする。今も一つリフコピーしよう。した。カポ位置わかったのでよい。昨日猫の歩容を切り出した際に覚えたyoutubeのコマ送りが役に立った。

何もわからない/

さっきから風呂で色々考えていたはずなのになにもわからないな。まあまた久々にオートマティスム的にするか。散らかった思考は散らかったまま、改行もせずにおくのがふさわしいと思う。書くという作業に意識がとられてしまうのはいただけないけれども、キーボードが以前と変わっていて勝手が違うということを書かずにはいられない。いま少し止まってしまったから、書こうと思っていたことを思い出そうとした。ここまで何も内容が無い。意思もそんなにないので言ったそばから改行する。

今の僕に一番差し迫ったタスクとしては研究の中間発表がある。他の研究室では何ヶ月も前から準備をするようだけれど、うちの研究室は基本的に緩くて、この中間発表においても、本番の3日前にできてるかのチェックがあるだけだった。いいのか?

基本的に昨年度の先輩のものを参考に構成を考えて、研究背景などはほとんどそのままでいいという方針。他の人はその昔のパワーポイントのデータをそのまま書き換えていくような作り方をしているっぽい。僕もまあ、はじめはそれに近い感じでやろうと思った。理由としては、基本的に研究室ごとにポスターのデザインは大まかに決まっているものだろうと思ったからだ。けれど、結局一から作り直すことにした。理由は、レイアウトがごちゃごちゃしていて古臭い感じがしたことに加えて、そのデザインに潜む設計者の意図を考える作業によって時間と色々な思考が阻害される気がしたからだ。まあしかし出来上がったものを見ると、それはシンプルさと流行のフラットデザインを素人目に意識した結果、なんだか貧弱で味気ないものだった。内容的にはそれほど変わりないと思うのだけれど、ごちゃごちゃしているほうが却って色々やっている感がでるというようなことか?単純にデザインが貧弱ということかもしれない。

デザインについてはこんなところだけれど、別に今から作り直そうというほどの不満足度ではない。それよりも内容でもう少しつめるべき部分があって、それが少し負荷を生んでいる。精神にです。明日学校へ行ってサーバにある論文を漁りつつ自分のデスクで落ち着いて考えれば、わかるかもしれない。不完全だと思いつつも先輩に送ったらその部分は別に特に言及されなくて、そのままでもかまわないんじゃないかと思いつつも、変えるとしたらその工程の中にまた先輩に聞くフェーズが入ってきて、そのタイミングどうしようということなんかも少し負荷。

そんままにするから負荷になっちゃうので、適当でもいいから決定をその都度して記憶に明記したほうがいい。頭が狭いので、その記憶を覚えていることも、明記する行為を思い至るまでもなかなかままならない。ノートに書くことを習慣化するという方向でここにその解決法を明記しておきたい。試みてはいるんだが紙がその都度どっかいったりして記憶も部屋も散らかる。インターネットは体積を持ってないので部屋は散らからない。

自分で決めたルールは、なんでも書かないと作業を効率化できない。デスクの使い方、PCの複数デスクトップの使い方。正方形の付箋に書いて貼っておくことで、ものは定置管理がしやすいのでその手法を積極的に取り入れたほうがいい。複数デスクトップも同じく何かで名前を書けるようにしたほうがいい。仮にでも。わかってきたかも。

今キーボードの下に紙が置いてあって、微妙に精神活動を阻害しているけれど、これはどうしたらなくなる?今なくなるというよりかは、しくみによって存在しえなくなるという意味で。これは今裏になっているのでよくわからないが、多分研究のメモか、生活関連のメモ。前者だとしたら、ジャンル分けして10ポケットのファイルにしまうことにしている。なんでしまっていないかというと、さっきまで作業をしていたからだと思う。今思考の順番を少し間違えた。後者だったとしたら、というのを先に言うべき。可能性を考える前に。後者だったとしたら、ルールが決まっていないのだ。これが問題。決めたいけど、こういうメモは今後要るかどうか怪しいものが多く、研究のようにとりあえずしまっておくというルールは適応したくないのだ。多分それによってルール作成が阻害されてた。

とりあえず、今すべきことは、①研究メモのしまうタイミングのスケジューリング。②生活メモ分類ルールの作成。すべきことにとりかかる。

①については、作業終了時に即時。できれば作業を終えるのかわからないというタイミングでも、終えるかもしれないと思った時点で片付けたい。曖昧だなあ。

②については、わからないとしてもとりあえず置いておくスペースを確実に作るべき。本当に重要なら、それをそこに入れる段階でフィルターがかかり、別の場所へ行く。この別の場所というのは常に持ち歩いているファイルなどかと思う。机の上に置いておきたいものもあると思うので、それを置くスペースというのも確保する。

一応終わり。作成したルールを適応可能なように実環境を整える。終了したらここに書く。終了。

ばかみたいだなあ。そうなので仕方なし。何歳だよと思った架空の誰かのために恥ずかしいとは絶対に思ってやらない。何を言っているかは部分的にわからない。

もっと大きなことを考える予定だったのがかなりしょうもない(って架空の誰かが言ってた)テーマになったのはやや残念に思うけれど、今の自分の状態行動空間がこのレベルの話になっているということか。それが分かっただけでも良いんじゃない。

ディスコミュニケーション

意味の無い会話が意味無いと思っていると本当に意味がなくなってしまうのだけれどそれは誤りで、それなりには意味はこじつけないといけないのだった。

形式化された問答にとらわれたり、何か自分に非があると必要以上に下手に出たり、そういうことによって常に意味は殺されてきた。何も思わないなら話す必要もないのに。

話す必要がある。生きる意味と同じくらいには無意味にも「ある」。

 

何が言いたいかというと失敗したコミュニケーションを記憶、反省して次に繋げたいということだった。

_さん・・・よく話しかけてもらうものの、思ったよりよくわからない。発言意図はまだしも、言っている内容を理解していないのにそれを突っ込んで聞かないのはよくないし、この人にはちゃんと聞いて理解することを重視する。

 

_さん・・・貴重な同分野の先輩なので一番仲良くしたい。一緒にいる時間が長い分、無意識に出る自分の悪い部分には気をつける必要がある。とりあえず、言われたことを逃さずに理解して行動に繋げる。この人においては行動が重要。

 

_・・・部屋を出るとき、わたしが大きめの声で「お疲れさまです」という前に、「おつかれ」と言ってくれたのだけれど、個別に対応せずその大きめの「お疲れさまです」だけで済ましてしまった。形式にとらわれた悪い例といえる。

 

_くん・・・接し方がまだわからない。うなずいてくれたり、前よりはつかみどころがある感じはする。(彼くらいの歳の頃の)自分に近いタイプのように思うし、他人よりは少しだけわかっている(ような気がする)自分には、もっと良い形態が考えつくべきなんじゃないか。

 

 

みちる

昼間は研究をして帰ってきたら一時間ギターの耳コピをするという生活に、これまでにない充実感を覚えている。

これが無理矢理引き伸ばされた猶予期間(らしきもの)によるものだとか、そういう事情を考えずに、即ちまだ先のことを考えないでいることに、生活の純度気持ちの純度が補強されているような気もしている。この充実感を享受することは僕にとってこの上なく新鮮なことであり、それを続けることはさらに未知の領域であるから、そこへ向かいたいのだけれど。

これも考えたくないがためだけに脳が嘯いた言葉だったとしたら、救いようはない。息をするように無駄で悪趣味で何のプラスにもならないことを言う気持ちの悪いもの。幸せの総量を減らすもの。

左の種

昨日は感じることが少なくなったと書いたけれど、今日は感じることができたように思う。

 

電車の中で聴く音楽が、光を放っていた。そこにいるという認識よりも音世界のほうが大きくなって、自分の立っている場所がわからなくなった。視界も少し明るくなったような感じがした。大きな音で聴くこと、意識を傾けること(どちらかに振ってある場合はそっちに目を向けるようにするとよくきこえる)、あとこれは邪道かもしれないけれど、イコライザを適切にかけること。こういうものによって発光は促されていたから、工夫は絶やすべきではないらしい。

一つ一つ虫を殺すように大人になっていく

こともなく最近は特に何も考えていない。

平日はしっかり研究をして、土日は休むという生活をしてみようかなとか、もうすぐ出ると決まっているライブだけれど準備してないなとか、着る服あんまりないし買いに行くかとか、金は無いけどできればこのままのペースで行きたいなあとか。そういうものぐらい。

 

今日は先に述べたように「休む」ぐらいだったので映画(『ダイ・ハード』)を見たりドラムの採譜をしたりゲームの動画を見たりして過ごした。

 

コンテンツに触れて、その世界に没入するような感覚は歳をとるにつれて無くなってきた。その没入というものには、作品に触れると自動的に自分の中に無意識的な妄想が構築されるような感覚をともなっていたように思う。その感覚を含めて、「感じる」ということが受動的に生起されなくなった。

なぜか。感動の中心たるべきところではない場所で些細なことが気になってしまって冷めてしまっているのかもしれないと思う。

 

反対に、わからなかったものがわかることによって、面白いと感じる機会自体は増えている気がする。けれど常にどこかは冷めている。

 

もう諦めて、見え始めた別の楽しみ方に完全にシフトするべきなのかもしれない。けれど、癖のように試みる。

間違っている気がする。どう楽しもうが間違いではないのだろうけれど、その感触にこだわって、却って思考が阻害されたり時間が空費されることは本意ではない。

 

何も考えていないことについて書くつもりだったけれど、話がそれた。けれどこれも少しは関係があると思うから、悪くはない。

見えない名前

木曜

旧友と会った。

僕は今野性爆弾のくっきーの動画をよく見ていて、若干その芸風になっていた。ちょっときついのでもう少し別の形になりたい。

 

金曜

panpanyaのTシャツを着て研究室へ行った。

高かった割にあまり着ていない、というかいつでもどこでも着ようというデザインでもないし、靴など他のものとの兼ね合いもどうなのかなどと考えあぐねていたが、とりあえず割とどうでもいい場面で着てみることにした。

下は基本黒いチノしかないので固定で、靴はサンダルだった。去年まではサンダルで学校へ行くという発想もなかったのだが、今年になって研究室にいることが多くなり、その時間の楽さも考えるとサンダルもありかと思ってやってみると、疲れにくかったので最近はよくこれをしている。もう若干寒いときもあるが。

閑話休題。なのか。その個性的なTシャツにサンダルという格好はいかにもゆるいサブカルおじさんという感じだった。まあ多分そんなきちっとしたものが自分にあるとも思えないし、中身相応という感じなのだが、電車に乗っていたりするとそれを強く感じる。他人の目線を意識したことによって、その自認がニョキと生まれる感覚は割と新鮮だった。他人の目線など存在しないということは置いておいても、ありそうでなかったもので、まあよかったですね。

 

土曜

寝起きが悪かった。

掃除やパソコンのメンテナンスなどをしていたら夕方になってバイト。

夜はドラムの採譜の練習をした。なんとなくる*しろうをぐぐったら菅沼孝三と菅沼道昭が別の人物だったということを知って、その後菅沼氏によるドラム採譜動画を見つけ、した。

 

珍しく固有名詞の多い記事を書いてしまって少し気持ち悪くなっている。