raingoesup

「」

ラメン

学会発表のため九州へ行ってきた。行く前は色々不安だったが、終わってみれば悪いことはほぼなかった。個人的には(ここに個人的でないことを書くことあるのか?だが今この表現がなんとなく気に入っているので使う)、ホテルの清潔で静かな部屋で過ごせたのが特に良かった。

主にそのことによって気力が回復し、最終日の夜中折角だからとふと思い立ってまだ食べられていなかった豚骨ラーメンを食べに行ったりなどもできた。

余談だが、おそらくラーメン屋のせいで、街はところどころ路地が非常に臭かった。たまに行く地元の豚骨ラーメン屋の店内も同じにおいがしていて、それを嗅いだときにはひどいものだと思ったが、あちらは店内にとどめているだけましだったのかもしれないなと思った。

海へ

授業が終わった後、醒ヶ井へ行った。福井を出るのは約2ヶ月ぶりだった。服と本を買った。ビルの6階は元々フロア全て本屋だったのだが、その下の階にあったアニメイトなどが6階へ移動し(それらがあった場所は服屋に変わった)、結果かなり本屋の売り場面積が縮小されていた。

卓上本立てがめちゃくちゃ便利だった件

授業受けて、昼までなんかやり過ごすみたいにして、昔の先生の部屋に行った。去年とは所属が変わって、しかもなんとなく言うのが憚られたから、入るときなんて言っていいかわからなくて、しばらく間を置いてから学年と名前を言った。ちゃんと大きな声で言うよう注意された。改めて思い出すと、これは一昨日のメールと同じようなことだな。

はじめて直面することは仕方ない、だから仕方ないな。

それでは多分追いつくことなんて到底無理で、もっと経験を積みつつもっと経験を一般化して「はじめて」ではないものとして処理できるようにならないといけないのだろうとは思う。

先生の指摘を参考に手直しをする。完成して印刷する。勝手がわからずに戸惑った。はじめてといえばはじめてだが......。人にも助けてもらった。もっと正常なふるまいで対応できると良いな。

「バインダー」って結局何を指すのかよくわからんね。クリップのついたあの板のことななら「クリップボード」というのをみんなつかったほうがわかりやすくていいと思う。「リングファイル」「クリアファイル」「ルーズリーフファイル」とかも名前はなんとなくダサいけどちゃんと言ったほうが混同しにくいと思う。

人目につくようなところに書くことでもないとは思っていて、最近は淡々と状態を記録するためのブログやツイッターもやっている。ある程度効果はあったと思う。ただ記録したところでどうにもならない部分も多い。

ある程度本音めいたことが言えて、誰かにそれを聞いてもらえる(らしい)場所は今のところここしかないので、頼りたくもなる。それだから「すこぶる状態が悪い」とこの記事を書き始めたが、やはり暗く見えて情けないので消して、もうすこしましな書き出しを捻出した。それをごまかすためと、ネタがないのをごまかすために、またこうやってその文章についての文章を書くみたいなよくわからんことも、癖のようにしている。

いや、何の話だよ。率直に言えば、思うように作業が進められないということが書きたい。しかしただ書いたのではその時間でやれよというようなことになり、情けなく見えるので書けない。書いてしまっているが。

期せずして、なんとなく言いたいことが文の隙間に少しずつ現れたようなものが出来上がっている。これは素直に面白いと思う。面白いと思うことは大事だよ。

言い訳が途中で止まったとしても、精神が好転した時点で切り上げて作業を進める。こういうのが大事だよ。

スポンジ

最悪なのは自分の精神状態なのかそれとも過去の真実なのか。自責をしたところで仕方がなくて具体的な方法を考えるほうが効果があるというのはさっき読んだ文章から学んだことだが、気付いていなかったとしたら手の打ちようもないし、忘れてしまっても同様だから、定期的につきつけないといけないのは確か。

認めたくない怖さなのか現実的な怖さなのか。

 

なんだか意味のないことを言っているような気がしてきてたので中断する。適当な構文で書くことによって、思考が成立しているような錯覚を味わっているだけじゃないのか?

 

(こうも自分の感覚を疑うのは、さっき全然人でないものが随分と長い時間人に見えてしまうという体験をしたからだ。)

 

本当のところ、その人が文を生成した意味なんて読み取れるはずもないし、全部の思考自体そういうものなんじゃないか。

自分の足りない知能の構造とその欠陥を考えていくうちになんだか頭が狂ってきている感がある。自分が何であるかわからない。当たり前のことだ。しかし時系列的にいうとその思考よりも先に、この事象は構造的な欠陥じゃないかという感想がきた。それは「欠陥じゃないかとキレそうになった」とか書くと面白いと思ったからだと思う。この場合どのような順序で思考が行われたのかどんな論理なのか。考えるのはやめておこう、面倒だしそこまでは時間無い。こうして重要なものが取り残されていく。現在に至る。

 

なるほど、根源から病理を理解するより、大きな紙の中心に「生存」とか「打開」とか書いて360度展開していくことだけが「生存」や「打開」の方法なんだと思う。しかしそれも、もとは「生存」とかから伸びてる枝の末端だったと思うんだけどな。

 

おそらく遠すぎて見えなくなった時点で消滅するんだ。部屋の奥底と同じように。

 

なんとなく可視化できる程度の思考構造を認識して、それで戦っていくしかないんだ。能力や評価も数値化されたものを指標に自己を定義するしかない。言葉や声色や表情なども指標として主流なんだろうと思うけど、どうもうまくマッピングできている気がしないし、センサ部にもどうも信用がおけない。

 

中断

 

学校とバイトはそれなりで乗り切った。バク転の練習は、公園に若者がたむろしていたので断念した。ネットで曲を漁った。

・・・

自分はある状態なんじゃないかとずっと思っていた。同じ状態の人が書いていることを読むと非常にしっくりくる。それを認めることでなんとなく気持ちが落ち着いた。認めることでちゃんと対策を講じたり、なんとなくではなく諦めたりできるなら、いいことじゃないかというのが今の考え。

回転

公園でバク転の練習でもしてみようかと前から思っていたので、ランニングのついでに寄った。人目がないかを確認し、とりあえず手頃な側転をしてみることにした。芝生がところどころ薄く、硬い地面がむき出しになっていたので、手をつく場所を考えないと手が激しく傷付く。なんとなく躍動感は薄い感じがしたが、まあできた。次にハンドスプリングをやってみることにした。これは逆立ちするように前に手をついて、そのまま身体を反らし足で着地するというもの。失敗すれば背中を強打してしまうので、なかなか勇気が出なかった。まずは寝転がった状態から脚を上げ、身体を反らし起き上がるという動作をやってみた。できないでもないが、ひどく不恰好な気がした。いい歳した人間が夜の公園で一人何をやっているんだという気持ちがより強くなる。人がいないか気にしつつ、手をつくのに適切な場所を探しつつうろうろした。手を前に出してみると案外簡単に、前についた。何か気持ちの作用によって途中で止まったりするのではないかと思ったが、そのまま行った。手をつき、身体を反らす。なんとか足をつくことができたが、かなり違和感があった。身体の反りが急すぎる気がする。本来はそこまで反らす必要がないのだ。数回やって同じような結果になり、助走が足りないのだと気付いた。おそらく側転の違和感も同じものだと思った。ある程度速度を上げ慣性を大きくすることで、手をついた後に美しい軌道で回転しつつ、前方へ移動することができるので、あまり身体を反らさずとも足をつくことができる。まずは側転からやってみると、推測は正しかったことが分かった。ハンドスプリングも成功。爽快感があった。しかしまだ人に見せるものではない気がする。人に見せようと思っていたのか?着地の際の脚が揃っていないことと、伸びていないのが気になった。原因はわからないまま、なんとなく人目が気になったのか、帰った。