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桜道

朝。結局あまり時間は無い。電車でスーツの若者を見ると気が立った。26歳くらいの人、とか言っていたことも気が立った。

昨日は沢山考えたけどそんなに意味はなかったかな。話したいと思ったところではそんなに話すことができなかった。まあ変わらない。その影響があったかなかったかわからないが、予期しないところで少しだけ楽し気な会話。なんですか?明日はこれはどうなるんですか。わからない。気持ちを軽く持ちたい。睡眠は大事なんで早々に寝ます。

 

3/31

帰宅中。どうにも、しょうがないことを言語化しないことには脳がかろうじてでも耐えてくれないというので、まっさきに助かりにいこうというものである。

思えば昨日は結構最悪な気持ちだった。まず、その中で今日のこれを正確に予測するのは難しかったことだと思う。それにしてみれば、今日の仕事ぶりなどはかなりまともだったのだ。

明日から別の事業所に移る人。どうやらその人に話しかけないまま早々に帰ったことを悔やんでいるらしい。この感情は、そういう局面でそういうことをするべきなのではないか、またはわからないにしろ、もう少し残って様子を見ることができたのではないか、という念に由来する。確かに、貴重な機会の損失であり、人間性のさらなる希薄化につながることだとは思う。

しかし。まず根本からいくと、そもそもが自分自身人間性を語るべくもない存在なのだ。結局、随所でまともに振る舞える確率などないようなものなのだから、これは普段通りのことである。

さらに。そもそも過ぎ去ったことよりも圧倒的に未来の、明日からのことについて思いを馳せるべきである。明日は、新しい人とごはんを食べに行く。そこで話すこと、スタンスなどを、相手の出方の予想込みで考えることのほうが、よっぽど生産的で余地のあることである。また、新人を迎えるための準備の打ち合わせなどもある。そちらだって、よりよい関係性の作り方のために、考えられることはあるんじゃないか。

ということで、平時の振る舞いとして、もう少し話す構えをとるとか、自分だけの流れに身を任せず周りの状況を飲み込んで一旦落ち着いてみるとか、改善すべきことはあるが、上記の理由により極めてしょうがなく、明日のことを考えることが今正当なことである。以上。

2021/03/29

たとえ錯覚だとしても普通の人のように思って接してもらえるのは、悪くない気持ちかもしれない。そんなことを言っておりますと、大概すぐ全然嘘がまかり通らなくなるような状況になりえるのでまったく怖いです。

昨日の夜中、納豆とナンを食べた。ナンがうますぎたので結構幸せな気持ちになった。翌日、今日は腹が淀んで気持ちもどんよりとしていたが。ナンを死ぬまでにもすこし食べたいかもしれない。気持ち。

そんな気持ちで起きて会社へ行く。割と時間は余裕があった。時間があったんだったら、自転車定期の更新をやったらよかったかな。いや、そこまで余裕はなく、かろうじて早いほうの電車に間に合っただけだった。

仕事。席が変わってそれなりの緊張が続く。電話があまり鳴らなかったのが幸いだった感じがする。それなりの集中力で進めることができる。昼は先述のようなことがあって楽しかった。午後も概ね同じ感じで進めて、定時後は雑務と自己啓発をして、帰った。帰りのホームで無になったけれど、今は何もかも忘れたので少し大丈夫になっている。何もかも。そんなところです。

2021/03/28

わからないよね。自分が何をやろうというのか。免罪符が欲しいのか。本当に本気でそれをやりたいのだとしたら、今このようにはなっていないだろうと。逃げてきた先で見ている夢なのか。それでも、そのまま閉じていくよりはましだからと自分を許してしまうような構造だけが作用している。それを分かったうえで前向きに気持ちは軽くいたい。どこかで自分がその過程でまともになってくれるという淡い謎の期待なども携えながら。とりあえずやってみる。

2021/03/25

サイコパスでいく象。そんなことが頭にあったかどうかは定かではないが、起きたらかなり時計の針が進んでいた。工程を圧縮する。圧縮しつつも、チーズをのせて焼いたパンのフワフワは確かに感じていた。一方で自転車を漕いでいるときは嵐でしかない。間に合った。

仕事。メールがくる。それなりに相手をされるということは、悪くないことのように思えます。助かります、がどんな高さから飛んできているものなのか、というところなどが無駄に気になったりもするのだが、そういうことは結構無駄なことだ。発せられる音声にせよ文字にせよ、文面だけをとらえることはきっと精神の一貫性につながる気がしている。そう思いたいだけ、みたいなところは多分にあるが。

そんなこんなやって、夕方には集まる。そういう方向に展開するか、という展開を相槌を打ちながら眺めて、けれどもその潮流には自分のみが自然に乗らないことはあっさりと決まって、今後どういう立ち位置になっていくのか、また読み切れない部分がありますが、気持ちは軽いです。

最終的に、明日巻き起こる大移動によせて、結構どうでもよさげな作業を1.5hくらいかけてやっていた。悪い感じはしなくて、まだ軽い。

帰る途中、ひょんなことからあるシーンを思い出して気が狂いそうになった。いい加減そろそろ転居しないと本格的におかしくなるな、との念も同時に出た。出てゆきたい。機運を高めたい。まあ春で環境は多少変わることもあるのでそんな機運も少しはどこかから運ばれてくるんじゃない、などと思いながら、今日はまた間もなく寝ます。そこにひとつくらいの正しさがあり、それがあったら助かります。

2021/03/24

昨日よりはましな感じ。朝は、サイコパスでいくぞ!という気持ちだった。いつもは電車で、その日の集中力を養うため、頭の中を整理するため、何もせずぼうっとしているないしは寝ていることが多いのだが、今日はもう少し自分の時間本位という感じで、音楽を聴いた。倉橋ヨエコ。みじめじゃない日はありません、というのを聞きながら、それなりに前向きな気持ちで電車を降りて会社に歩いていった。

不具合対応。なんにせよネタがはっきりしているのはやりやすい。昨日は何をしたらいいのかわからない、どこまで動いていいのかわからない、というのもあって異常な眠気が来ていた気がするが、今日は基本ずっと明瞭だった。夕方はカルピスソーダを下の自販機で買ってきて飲んだ。定時後のやつもした。話しかけられるかと思ったけれど話しかけられなかった。総評としては、サイコパス的発想で気持ちを軽く持っていたのが功を奏してそれなりにうまくいった気がする、というところ。今年に入ってからの1日周期の躁鬱の例に漏れていない、それだけの変化という可能性もなきにしもあらず。まあ気持ちは軽く持っていましょう。フワフワ感を出すこととは同一ではない。そんなところです。