raingoesup

「」

日記

家に変な奴らが上がりこんできて、胸倉をつかんでもどうにもできなくて、多分これは夢だろうと思ったけれど、雨の降る窓の外を眺める意識はいたって明晰で、眼鏡をしていないことを考慮すると解像度もこんなもんかと、夢でないことに絶望感を覚えた。起きると腕が痺れていた。

そのあとは、何故か意識が変革されて、遠ざけていたタスクに再び向かうことになった。けれどまたその当時の心境がよくわからなくなって、速度を失ったままタイムリミットを迎えようとしている。

なぜベストを尽くさないのか

日記

・何もかも中途半端。何かを捨てることなんてできない。

・捨てるのではない。捨てられる覚悟をするのだ。

・騒音を拒絶する力を利用して集中する。

・日本語と英語の間に非言語帯が存在する。

 

記録。ここに書いていることなんてその与える印象がネガだろうがポジだろうが所詮はすべて言葉遊びにすぎない。思考自体言葉遊びにすぎない。

言語化できないイメージを明確に思考に取り入れることができるという点でAIは人間に勝っているような気がする。

音楽や絵、書などと比べると言語はとても一般的で庶民的なものだ。皆ままならなないながらもそれなりに使ったり、使っているふりをしたりできる。最初は音、次に文字の形になって、それを組み合わせて思考を成り立たせている。へえ。なるほど。

画像と音像と言語像、これらの境界にもそれぞれなんらかの共通イメージがある。言語でいうと像とは?そもそもさっき書いたように音から発展して視覚情報になったものを他のものと等価に捉えていいの?と思いつつも調べたら大好きウィトゲンシュタインが言語像という言葉を使っているのを見つけて、満足して使った。

(前略)すなわち、言語に含まれている語の一つ一つが何らかの対象を名指しており、文章はそのような名称の結合である、というのである。この言語像のうちに、次のような見解の根源があるといえよう。すなわち、どの語も一つの意味を持つ、この意味と語との間に対応の関係がある、意味とは語が代表する対象のことである、というものである。

 でもこの文脈だと「言語という概念を捉えるイメージ」として使われていて、さっき意図したものとは違っている。またここでイメージなんて言葉を使ってしまうと余計にややこしく感じるけれど。

「ある言葉が指し示すイメージ」を言いたかったのだけれど、どうやらそれは「意味」というべきなのかもしれない。言わないべきかもしれない。

日記

・ある文脈があっての発言だけれど、諦めは覚悟と同義と言っていた。

・自分は自分の惰性をまだ諦めきれていないということになる。

・いますぐ寝て、明日の自分に託してしまいたい。

・永遠に終わらない六月がまたやってきた。

・週末に遠くへ出かける。そのうちに頭が狂って行方不明となるようなイメージが想起される。

・「あらゆる人間に適材適所があるのならあいつが納まっているべき場所は」笑えない。

日記

定量性という言葉は、ものごとにおける、そのものごとを量的に考えられるかどうかという性質という意味だと思う。今日は「定量性に欠けている。」という書き出しをしようと思ったけれどこの場合意味が合っているのかどうか自信が無くて、こうなった。

善意か惰性か知らないけれど、今日は二時間ぐらいを奉げてしまった。このことは多分間違っている。

 

======

悲観する時期ではない。飽きるとすれば工夫が足りていないからだ。

諦める理由はある。どちらが面白いかはわからない。今はこの苦労に乗ってもう少しだけ思考の限界を広げたいと思う。もう少し。これは知性をかけた持久戦のような、けれどもエンディングは複数あって、バッドエンド以外ならよい。いくつかの場所に即死イベントがあることに注意することにする。

日記

・「生きている意味などない」の「意味」とは果たして何か?通常何か大きな枠組みの中である事象がジグソーパズルのピースのようにぴたっとはまることがその事象の「意味」ということになるけれど、生きていること自体を内包するような大きな枠組みは存在するのか?

・10994850849803980948062980という自然数をわれわれは理解することができる。それ自体はまだ誰にも呼び出されたことがなかったとしても、1の足し算を繰り返すとという仕組みのなかで、それをもう既に知っている。

・無限の概念には2つの見方があって、一つは、このようにある繰り返しの積み重ねで、いかに遠くともその先を知っているという見方。もう一つは、無限というのはもっと離れていて、いくら繰り返したとしても到達することのできない場所を無限とする見方。

・人生に意味が無いと感じるのは、思考の限界を前者の見方で捉えていることが原因。

・ただし、思考の限界が変わることは往々にしてありえる。

・語りえぬことを語ることはできないが、それが語りえることに変わることはありうる。

日記

氏の発言をまとめておく

・「夢」というキーワードに囚われすぎるな。やりたいことなんて、何かを苦労して学んでみないとわからない

・新しいことを何でもパッとやってきた。俗世間を生きる縛りを持たなければ、結構できる

・縛りを持たなければ死ぬ確率が上がるが、そもそも生きている意味を探すこと意外に生きている意味はないので、つべこべ言わずに死ぬ覚悟をすればいい

 

===================================

自分は今、やりたいことを提示するタイミングに直面しているが、それが定まらずにいることに多少の焦りを感じている。まあまあやってみたいことというのは無数にあるのだけれど、その一つだけを人生と捉えることが難しくて......。いくつかを並行してやるためには最低限俗世間を生きる縛りを持っておく必要があると思っていて、縛りを設けると、より効率的に生きて満足感を得るため物事の優劣という側面ばかり際立ってきて、結果「正しい答え」に近いものを選ばなければならないということにプレッシャーが強くなる。

これに対する更なる解答は、また気が向いたら。問題を提示するだけでも気持ちは整理されて少し楽になるので今はそれで十分。なんとなくわかりそうな希望感のほうが、深く整理して駄目だったときの失望より好ましく思う、今は。