raingoesup

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日記

喋る練習をしていたら、自分の口調が大嫌いな奴と似てきていることに気付いてすさまじい気持ち悪さを感じた。適応したくないのにもう息をする瞬間に入り込んでくるのがたまらなく虚しい。この話はもう無理だ。やめよう。

 

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自分はもう若くない。若くないというのは事実ではないけれど、子供ではないという表現はなんとなく憚られるからそう呼ぼう。だからそれ相応の楽しみ方を見るべきであって、しかしそれは常識の範囲に収まっている必要は特にない。求めても絶対に手に入らないものに憧れなくても、もっと見るべき可能性があるということだ。ここに表れた前提については特に触れないことにする。

 

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ここ数日はまともな文章を書くことができていない。参っているのか?こうやって楽しい方向へ向かおうとしているのに、精神活動は不安定なままなのか?昨日の話でいえば、明晰でないのだ。特に、何かに取り組もうとした瞬間に靄がその濃さを増す感覚がある。もう少し大人びた妄言が書きたいのだけれど、生み出すものがそういう顔つきをしていない。今は確かに不安定で、言葉がそうなる原因もあるけれど、それでも全体は大人へ向かっていっていると思っていたのに。改行を減らすとそれっぽく見えることもあるけれど、続かない。続けても何かどこかスカスカだ。

日記

めいせき[明晰]
1.明らかではっきりしていること。「頭脳
2.その概念と他の概念との区別がはっきりしていて、混同されないこと。判明。
 
明晰か?過去や今が見えるときと見えないときの違いを感じる。今は明晰ではないけれどもさっき散歩をしているときは明晰な感じだった。
 
濁らせる要因は何なのか?はっきりしていてほしい。今に関してはノイズを受けているから駄目なことは明白だ。

 

時間が無くなった。

日記

時間は限られているので3分以内で書こう。タイプミスで時間を食っている場合ではない。

意味の無いようなあるようなわからない日だけれどそのときやることだけ見失わなければよいということらしいので、時間を細かく区切ることにした。モデル化、最適化されていないことが多過ぎるのが問題なんです。落ち着いて考えろとか言われても意味不明だったけれど多分そういう理解が正しいと思っておく。

言いたいことはだいたい言えた気がするけれどもう少し時間があるから明日のことでも考えるとすると、ここでいかに心を乱さないかが、私の理解と実践の完成度ということになる。表現を精査する時間がなくなるので時間には余裕を持って書き終えるという時間配分でなければならない。

日記

朝起きて意識が明晰な気がしたのは、曖昧な夢をずっと見ていてたせいか。最近はだいたい大学院入試の夢を見ている。

テストを受けにいく。TOEIC=R大学=オタクサークルのポスターがある。活気のある学生生活を伺わせて、それはなんとなくとても羨ましく思う。自分の通っている大学のサークルは、あまりポスター形式の勧誘をしない。自分の想像していた大学生活との齟齬がそのあたりを起点にして広がっている感覚がある。

テストは前回と一転して静かな環境だったので集中できた。

 

朝食のパンに塗りたくるシロップを切らしていたのでスーパーへ寄る。フルグラが目に留まっていいなと思ったけれど、その隣にあったむぎスナックにより魅力を感じたのでそちらを選択した。

昼食を摂っていなかったことを思い出してうどんを食べた。最近はそばをより好んで食べていたのだけれど、久々にもちもちつるつる。4本くらいを箸でつまんでモチッ!と食べたら空腹と反応して非常に美味しかった。わざわざ進んで語彙力を殺しに行くのは本意ではないのだけれど、もちもちもちもち......。

日記

意味のわからない忘れ方をしている。生活に対する集中が途切れすぎている。この時間をこそ最も恐れるべきであり、過去に積もった恐れはなんと呼べばいいのか。

私が接触を求めている。これが無駄なこととは思えない。本質がここにある。本質との乖離を過ごしている?今以外の本質があるだろうか。今でないならばそれは本質どころではなくただの嘘になる。嘘をつき続けて生きているという比喩が似合う。

私はもう少しだけ現実を見る必要がある。これは本質から乖離しないための必要条件だと考えられる。現実の定義は?小一時間考えるので待って欲しい。

結局よくわからなかった。今というのを考えると、これはその時々でしなければいけないことは、タスクの選択と実行だから、これで話を進める。

苦痛ではないと証明されたことをためらうのは何故かというと、迷っていたり他のタスクの優先度が高かったりするからだ。迷っているというのは優先度が不明ということだから、これは早急に解決しなければ止まってしまう。この身体にはあいにく止まってしまったときのエラー措置がプログラムされていない。これは今は「脳の活動を声に出す」あたりにしておくとして、優先度の処理だ。優先度不明な事項が複数ある場合は、それらを一定時間ずつこなして判定するか、判定のためのタスクを新たに設けるのが適切だと思うけれど、後者は難しい気がするから、身体を止めないためには前者の原始的なアルゴリズムに頼ることも必要というわけだ。現実=今=本質であり、それを構成する意識は評価関数の塊。評価関数が不安定かつ狂いまくっているから幸せもよくわからない。幸せになりたいことと矛盾する価値決定をする。矛盾の塊になってるわけなんです。これが現実なんです。矛盾を正すことがまずは真っ当な人間になるということになると思うよ。

だんだんしんどくなってきたからまた甘えると、仮に矛盾が無くなっていって完璧になっていったとしても、そのうちの一つが誤りであったならば、たちまちすべてが崩壊する。これを避けるために、突然変異やランダム探索もまた必要なことだろう。

評価関数に従い書くのをやめた。今はこの文章をまとめるよりも重要なことがあります。

日記

雰囲気や知性が劣化することを卑怯にも恐れて、雰囲気と知性を自分の好む具合に成立させている文章を音読していた。いくらやったところで足りない。

いくらアニメを見ても結局何かが足りないし、一時期のように本に没入するということもできなくなってきている。一昨日のように何かに没頭できているというのはとても好ましい状態だった。最近の自分におけるこうした没入というのは、それが適当に終わってもよいものだとわかった上で適当にやっているときに表れている傾向がある。入試の準備にしても、まだ何もわからなかった四月の段階では、わからないなりに手探りを続けることができ、結果として頭を良くすることはできていた気がするのに、方向性を固めなくてはいけなくなってきた最近は、何も手がつかず頭を劣化させるのみだ。

今頭によぎった悪いものを一応書いておくとする。結局自分がそうした性質が極限に強いのだったとしたら、完全に自由な期間というのを与えてやるべきだったのだが、それとは全く逆の状態を続けていた生活は、なんと無駄なことだったろう。と、結局は嘆きで文章を終結させるのだが、その月並み感たるや。終結させないと今のようなことになる。

頭によぎったイメージは、多分自分が思ったよりも文章を終結させる力の無いような虚弱体質なものが多くて、けれどそんなものがいちいち身体の動きを止めてきたりする。今日困難にぶつかったときは、ひたすら問題と行動計画と愚痴を声に出しながら対処をしたら、案外うまくいったのを思い出す。

愚痴はとても嫌いだった。周囲の人間に負を撒き散らすことに罪悪感を覚えないような美観の欠如を、それだけにはなりたくないと軽蔑していた。

 

今頃こんなになって、かろうじて厚くなっている壁を信じて、自分の声の小ささを信じて、自分のために声を出している自分にとって、多分ずっとそれは半分くらい嫉妬だったんだろう。

日記

これ以上は惰性だと振り切って寝るところ。

 

知性を考えるよりも、自分には先にやるべきことがある。このときは確実に没頭して忘れられているのだから幸せだ。もっとも、だからといってそれを続けることができるというわけでもない。これも自然現象のひとつだと今日は結論付けてみる。

 

その他のことは書くまでもないというように、ほらこうやって忘れていられているのだから、やはり素晴らしい。