raingoesup

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漂流

流氷に乗ってあざらしがやってくる。

 

現実が大嫌いなのか。俺はクリオネを見たことがあるのかないのかわからないけれど、二、三日したら変われない。ノイズを受けながら文章を書いていると支離滅裂になるけれど、自分の生活もこんなようなものか?いや、そもそも比率がおかしいというだけで、ノイズ自体の音量はさほど大きくないのだ。

 

流れを塞いでみる。案の定言い訳しか残らない。ここにはやりたいことも何もないらしい。

 

低いほうに流れていくことを止めるタイミングがあったような気がするのだけれど、忘れた。敬語の使い方とかそういうのも忘れた。こんな姿にだけはなりたくなかった?

 

惰性の夢を見る。友人が持っているものよりも少しだけ日本風で、他の友人のものよりも少し古い。これを見るために自分はさっき散歩に出てきて、その延長に敷ければと部屋まで戻ってきたはずなのだけれど、うまくはいかなかったらしい。何をもって成功とみなすのかは不明だけれど、やりたいことを適応するかたちに曲げて、どうにかここにも足をつっこんでいたいらしい。

 

見る夢が古く朧すぎる。朧であるから成立している幻影をかたちにできるのか?

 

今日の形はどうだ。やはりさっきの散歩が一番で、他には惰性の最たるところの行為も、自分の好む影をみせていた。それも今は動かなくなって、文字を吐く主体だけが残っている。言語中枢が麻痺するのを避けるためという大義名分を掲げてはいるが、自分はその実態も知らなければ、この行為自体がその神経を破壊しているのかもしれない。何も信じられなくなったが、そういえば頭を回し続けて維持することが重要という認識をこのところの宗教としていた。とはいっても信心も生えることのない人間だった。さっき書いた妄言を省みることもしないままに、自分は他人の文章の粗探しをしてしたり顔をする行為で自我を成り立たせるのだから、たちが悪い。今の文章は、呼応が成立するということに無意識に気付いたという理由だけで「たちが悪い」という締めで構成されることになった、たちの悪い文章である。

 

嘘ばかり言うようになってしまって、またこれはいけない。嘘が少なくなるように今から動いてみるのはできそうかもしれないと一瞬思ったものの、障壁の多さを考えてまた動かなくなった。動かないのに、喋りたいのか。動かない僕は風に晒されたいと常に思っている。

日記

脳が戻ってきた。

これもまたすぐにどこかへ行ってしまう気がしてならないけれど、寄せていくことをしたい。

 

明日は冷静の上にあるか?踏みとどまろうとするのではなく、受け流して自然に戻ってくるようなポテンシャル場を作ることに注力したい。

 

上の二つは矛盾しているか?していない。

日記

久しぶりにお香を焚いた。

(僕は喫煙者ではないが)煙草を吸いたくなったというのが、この二つ目の円錐を消費する原因だった。少々煙た過ぎるが、無理矢理に気分を変える力がその図々しさにはあるように思う。

皿にタイルを貼る工作をしその皿でお香を焚く、という遊びを思いついて一ヶ月前取り揃えられたそれらに、二回目の出番があったことはなんとなく幸いな気がして、僕も幸せになる。

 

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頭が腐る生活をしていると思う。一番知的な営みを推進されるべきであろう場で馬鹿みたいな思いをして、閉じた仕組みの翳りに吸収されていく。きたるべきときに、自分はそれにふさわしいものとして胸を張ることすらできないとしたら、本当に意味が分からない消耗になる。

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そうやって、今何よりも反応が欲しい自分にとってそのわけのわからない遊びが媒体となってくれたのだから、遊びにとっても僕にとっても幸せ尽くしなのだ。

日記

そっち側へ身を置いてなければそっち側の未来はないはずで、どうにかそこに乗っていたいという気持ちとその逆をいく不安が大きいのだけれど、置けていない。

 

やさしくないとだめだ。正しさは保障されるものではない。この都合のいい価値観が身体を蝕んでいる。僕は                     と思っている。

 

マスクをつけたらたちまち安心が訪れる。口も鼻も目も耳も塞ぐといいのかもしれない。身に余るものだ。

日記

あまりにも外れないように保っている。辿ってきた軌跡も向かおうとする軌跡も違いすぎるのはわかった。数の暴力で間違ったものを浴びせられるのは当然気に食わないわけだ。欲をいうなら、正気のうちにそれを飲み込んで場所そのものを変えてしまえるような人間に僕はなりたいけれど、いささか余裕がない生活が底を見ない現状にとっては過重なものだろう。

忘れることを忘れ

関係はない。忘れることは忘れた。自分は常に新しくなる。新しいものの影に思い出したくも無いものが表れて嫌になる。こんなくだらないことも、多分一生覚えている気がする。その彩度はせめて相対的に限りなく低くなっていってほしいものだけれど。

 

新しい世界を開くのが言葉であったならばそれは自分の望むところだけれど、それを今綴っている。気負ったものでなくていい。普段試みるように、その端に少しでも良さを滲ませようというものにしたい。

 

愚かにも恐れるように、自分を低く見られたとしても、嘘の無いものが相手に残れば、お互い距離感を矯正して幸せになっていけるはずだから。