raingoesup

「」

20180333

大学生(身分として)終わった。と思っていたけれど聞くところによるとまだ美術館でも映画館でも学生料金で入れるらしく、そんなに変わらないんじゃないかということに落ち着いた。アマゾンプライムスチューデントにもこれから入る予定です。

冷静に考えて4年間で何も大人になっていない。そもそも冷静に考える余裕や能力がない。小学生が高校生になるくらいの変化はあったと思うけれど。

相変わらず何も。孤独で、何の確信も安心もないところをみすぼらしい格好で徘徊している。偶に合点がいったように覚悟を決められるような瞬間があるが、うまく思い出せない。

気負わないこととかなめくさることとかが結果的に勢いを与えるとわかってきた(と思う瞬間がある)ので、その方針でいくことを決めたらしい。それは自分の中の誰かということにしておく。

無題0

いっぱいいっぱいになってすぐ動けなくなってしまうような状態で臨んでいる。もう少し余裕があったような気がするんだけれど。どうやって身体のすみずみにまで気を配りつつ成り立たせていたのかわからない。そう思い込んでいただけなのかもしれない。

星の。宇宙の。青春と呼べるような、昼間暗い部屋の少し冷たい空気の味。そういう匂いを思い浮かべていたこともあったが、結局別の道を選んで失敗し、どちらも得ることはできなかった。その落ち着いた場所でただ生きようと覚悟したつもりでいるのだが、そこからどうしても動きが鈍くなっているような気がする。

天井から

頭は使えたり使えなかったりする。その特定の思考に要する部位がなまっているんだろう。頭をだめにする要因は色々心当たりがある。それに頼るのは悲しかったりつまらなかったり怒りがおさまらなかったりするからだと思うので、やっぱり楽しいのが良いって。それも多分、もう少しだけ日常的に楽しくなってくれれば、思考力も安定するだろうな。まだかなわないだろうけど。

ほんとにあと少しだけどうにか乗り切れば、あの曲を演奏してすべてを納得におさめられるような気がするのだ。あと少しだけ。

研究室に行ったら、先輩が院の授業で出したレポートなどをもらうことができた。会話のひとつはうまく普通に返すことができたけれど、もう少し何か言えたんじゃないのか。言うのが普通なんじゃないのか。

自分は自分が思っている以上に大変で、まともな会話などしたことないのではないかと思えてきた。スマホの充電ケーブル(通常のジャックが壊れており特殊なマグネットを用いたものを使っている)をなくして不安なだけだったかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

勝手は違うんだが、PCのラインで話が進む。気分がそんなだったから帰宅してすぐ缶チューハイを開けた状態で。少しやりすぎかもしれない。けれど慣れないことをするにはこのくらいは思い切らないとできないんだよ。お酒のせいでまたひとつ老けたか?鏡を見すぎてしまう。

煮え切らない大学生活と音楽の救いを対比させるMCを頭の中で思い描く。どれだったらこの顔でも似合うか?そんなの今考えたってしょうがない。早く論文を完成させて、その後に身なりを整えて、諸々に臨むべきなんだ。

壊すのは

昨日も怠惰に過ごしてしまったのだが、終わりのころに良い知らせがあった。

賞がもらえるらしい。

もう少し早く言ってくれれば、今やっていることももう少しやる気をもって取り組めていたかもしれないなとか、とりとめのないことを思った。

まあ、これで明日からは頑張れるでしょうと捉えることができたが、今日を迎えてみればそんなに効果はてきめんというわけにもいかなかった。

 

本当のところ大した努力もしておらず、副次的な報酬にすぎない。本来の目的は潰えている。それでも自意識は守られ、ふわふわと名誉が妄想につながっていくほどだ。

として

ただぼんやりとした怒りがあるだけ。それを表出させてしまったが最後、端の方からすべてを露わに引き剥がされてしまいそうという予感により、今日も持ち続けるのみにとどまる。

歪みの始まりは異常性。違わなければ面白くはないのだろうけど、一緒にまとめられたくくりなのにこうも感覚や行動に、強烈な違和感を生じさせる突然変異を憎まないでもない。

それを矯正することを放棄してしまった僕と、忘れてしまった誰か。どっちも最悪である。矯正しないまでもなんらかの対策をとるべきなんだが、無だ。自分が表出されない。身体を微かに、大げさに震えさせることしか叶わない。

流れの中で生きていたい。しかしここにきて、無から生じた凝りのたまっていたことによって、大変に流れが悪くなってしまった。

責任はある。それぞれが個人として。それを果たす方法は説明すること。それを今練習しているような、放棄する言い訳をしているような状況だ。

どれだけ面倒でも、別の場所がどうであろうと、向き合うべきらしい。

あるんですね

まあまた何も考えずに再開してみるくらいがいいか。

ブラウザの拡大縮小ツールを使うとこのエディタの文字も変わることに気付いた。どの大きさで書くのがいいのか。卒論のときも、ワードの表示サイズの設定を変えると勝手が変わったのが思い出される。一文一文の濃度が、文字を大きくした状態ではより大きくなっている気がする。きめ細やかであるのはいいんだが、しかしもうすこしあっさりと淡々としていてほしいことも多くて、そういうときは小さくするのが望ましい。前のブログテーマが文字小さめで、そういう淡白な味わいを意識したものだった。今は110%の設定で、ブログページよりもかなり大きめで書いていますが、その結果は更新されてから見てみないとわかりませんね。そんなに書いていないはずなのにもうすでに画面が文字で埋まっていて、実のない達成感を得られるという意味では良いっぽい。中学校のときは英単語をひたすら書いて覚えていて、ノートの上から下までを埋めて黒い壁を作るのが好きだったからそう、やった感触をゴシック太字に強調したようなものを摂取したがる生き物なんだ。そういうものを積み重ねることで強くなったと思えている。それは形がはっきりとしていて凛とした面持ちのもののほうがよいらしくて、最近はギターの譜面をかっこよく書いて捗ろうと営んでいる。

本当はもうそんなにやりたくもないのか。完全に一人になってしまいたいという気持ちは常に起こる。人の中で生きるのはやめて、最低限の社会性を残したまま特殊な生物に。そこまで極端なのはたまにしかないので今のは間違いだったが、確かにそういう種類の気持ちが常に、現実的な選択肢としてある。そういう選択肢を提示している精神がもう異常なんですか?結局何をなすこともできず、友人と過ごしたり趣味を極めたりすることもできなかった4年間。いやでも、始まりが異常だったところから何を求めるでもないはずなんだ。一度死んでいるようなもので、十分に好転しているといえる。選択肢はあったとしても今は選ばずに、まだ少しだけ違う実験を試みることで間を持たすことができる気がしてきた。