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連続3

情報不足は解消しないまま臨んだ。それは大した問題ではなく、結果は楽観したものと同じだった。結果以外の部分では、問題があった。

問題にならないようにと発言することが、結果としてとにかく感じが悪い。でも仕方ない。いくら近く見えたって、その形質を僕が好きであったって、遠いから仕方ない。そんな風に諦めて今別のことに集中する。これは繰り返してきたことと同じだろうか。わからない。

明日はやることの比率を変える。朝~昼にかけての時間の使い方が重要になると思う。

連続2

半年前の記憶の塊は、今になってやっとほんとうに輝いて見えるように見える。それよりも輝かしい知らない人を思って虚しくなった後そう感じた。今できることは、この塊によって、新しい輝きの再構成を促進すること。それを可能にするのは連続性の認識か?塊はその間の濁ったものを押しのけてあの瞬間と今を繋ぎうることを思えば、そういえる。

明日の情報が不足している。これは明日の午前中にできれば解消する。

連続性のための連続記事

授業内容も会話も問題なかった。今日は簡単なことしかやらなかったし、聞かれたことはだいたい答えられた。受講生は僕を合わせて二人で、珍しく自然に話しやすい人間だった。

 

授業が終わったら食堂でタレカツ丼とインゲンの胡麻和えを食べた。タレカツは良いけれど、値段の割にまともな野菜が食えない不満感は大きいので、やはり最近そうしていたように研究室でカップ麺とコンビニのサラダを食べるほうが良い気がする。うまくやれば200円で野菜と満腹とうまみが得られる。

 

11時半~8時半まで研究。その後は帰ってきて夕食を食べて犬の散歩をして、楽器を練習した。研究も楽器も、没頭している感はあるが大したペースでは進んでいない気がする。充実感がその他の事象を足止めする。

足止めの解消を提案。明日の朝実行した後に学校へ向かうことにする。

うまくできない

縛り付けるほうが多かったか。今日浴びていたのはもう知っていて飽きてしまったものだった。それには自分の失敗も含まれている。抱えなければこの種の失敗をすることもないというのは言い訳か。それに悩まされることに何の意味があるのか。

土日にやろうと思っていたことは6割くらいは片付いた。体調が悪かったこと、問題を抱えてしまったことを思えば仕方が無い。

明日は授業がある。今季は月曜の一限に一コマだけ。おそらく少人数であることが予想されていて、発言機会もあるかもしれないけれど、今までの内容を忘れていて困ることがないだろうかという不安が一つ。もう一つは、これも少人数であり、受講者に特定の条件が付されていることからメンバーもだいたい限られてくるということから来る、それが誰なのか、それとコミュニケーションとろうかという不安が一つ。

前者については今からでも遅くないから講義ノートを出してきて明日の授業開始までにぱらぱら眺めるだけでもある程度軽減されるように思う。後者については、あいさつをするような間柄の者がいれば適当にしておけばそれでいいという合格ラインを設けておく。が、話の内容はあんまり読めないし、進路についてはあまり答えようもなくて答えたくないという気持ちがある。身勝手な不安だ。

昔から決められないし行動の説明もままならないから、サイコパスになって適当に答える自分を許していかないと、リズムが保てない。そうする。

ばねを再現したいとき、ERPとCFMを使ったジョイントでは可動範囲が設定できないという問題があったが、あれは単に現在位置を取得して限界に達したとき反作用分の力を加えるというのをプログラム的に作ればいいだけじゃないのか。次会うときに話してみよう。

 

ラインをしないといけないものが3つばかりたまっているが、昨日今日は返すという意識もなかった。明日明後日に返そうと思っている。

 

明日はまた新しいことがある。それが自分の世界を広げる度合いと、同じ場所に括り付ける度合い、どちらが大きいのか。

何もわからな2

今日は比較的良い。朝家を出るときは悪かった頭の調子も、夕方ごろには回復していた。悪かった頭が消えると同時にいくつかの失敗を忘れた気もするが、気にはならない。もっと前から頭から離れていた本の返却についてはまだ余裕があった。たぶんこのあたりは大丈夫で、もっと考えるべきは大きなことなんだと思う。十代のころはすべて過ちであったから、何も取り戻せはしないにせよ、それを踏まえて過ちは少なくしたいのだけれど、考えられてもいないということは、十代のころと同じレベルでの失敗にまた戻っているということのように思う。

明日は研究中間発表。周りに流されて、多分その周りたちよりはおそらくましなものの、本当に納得できるところまで詰めるという一種の納得に至る過程を経てはいない。これも過ちの一つではあるのかもしれない。考える余裕は昨日の午後から増えたはずだけれど、そこから今の期間において、完成度を高めようという意識に至るまでの遷移はなされなかったということになる。

この話をきっかけに思い出したけれど、自分の理想を犠牲にして得た馴れ合いや、馴れ合いの結果くすんでいった意識に、僕はどう接してやればいいんだろう。今日も事務室で大きな声で喋っていることにひどく神経を疑うもののそれに対して何も言うでもなく、自分のほうへ話が飛んできたら適当なレベルの冗談を返すことに集中などしていた。今このときは、手の上に載せて眺めることはできているけれど、それを憎むべきか改めるべきか何もしないべきか。何が役に立つかなどわからないから、今役に立つものを選ぶ。それが今の自分の状態行動空間だったはずだ。そうか。どうしようか。

今の話だと何か周りの人間を見下してばかりいるようだが、実際は劣等感が多く含まれることによる心の動きだということは多少自覚もしている。存在しない誰かに断っておく。