raingoesup

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石焼味

不完全な振る舞いの一つは、「はじめてのはんだ付け」という言葉を語感の良さから呟き、「はじめてなん、経験としてやっといたほうがいいやろ」と返ってきて、実際は初めてでもなんでもないんだけれど、結局訂正しなかったこと。語感の良さしか生きるための、行動の指標がないのか。まあ謎だけれどどうでもいい。機会があるとするならば、それは僕がマイナスの感情を抱く機会だろうから、そのときは訂正しそれを回避したいと思う。それだけ。

諸々の不完全な振る舞いがある。まだある。普段なら「そうですね」と言うところを、あえて「はい」のみにした。これは自分がやったことに対する過剰な自信感、自負が出てしまうとよくないような気がしたからだが、明らかに会話のリズムを乱していったし、それは自分が、不機嫌になったときのような反応になってしまっていたからかもしれないと思う。

あるが、結局どうでもいいという結びにせざるを得ない。内面だからだ。内面ではあるけれど、それをちゃんと考えて、向き合って、その上でいらない感傷をゴミに変質させる、という過程が大切だと思うし、それを文章として滲み出させることは、その過程そのものになりえると考える。やっていきたい。

意味が暮れる

金曜の懇親会が終われば本当に気が楽になると思う。それが終われば、かねてから言っている野外飲酒2年ぶり2回目にも取り組みたいと思っている。本当に。頼む。

とりあえずは明日のことを考える。どうにでもなると思っている。どうにでもなるが、また小さな失敗を積み重ねて、信用と自信を少しずつ失っていくのかもしれない。信用はまだ取り戻すこともできうるし、自信は内面の内面の問題なのでまあ問題ない。やっていきたい。

TA。最中に勉強して、今日は何にも役には立たなかったが、質問されたときのための回答は揃ったし、日々好転していると言える。できなかったことができるようになる。その幸せが溢れる横で、知らなかった音楽でも聴いて、知らなかった感覚に目覚めたりして、そんな新鮮な生活を送っていければと思う。

6/12

余裕ができると、どうでもいいことが気になってしまう。どうでもいいのに。内面だから、ぐらいの感じで気にせずに、できることをただやっていきたい。今日は少なくともできることをやっている。

6/13

研究に没頭している。課題を一つ一つ解決していくことに安らぎを覚える。他のことの楽しさは相対的に下がっている。

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浸かっている間は安らぐからと、必達タスクを消化したらずっと延々プログラミングやら環境構築やらをしている。研究と関係あることもあるし、ないこともある。けれどもどこか、頭にある一定の閾値以上の負荷をかけないように動いてしまう。恐るべき悪癖の一つだ。あと一歩踏み込めば、思考を伴う体験をすれば、伴わない場合に比べて良くなるだろうに。伴わなくても役に立つ部分があるのが、それを引き起こす一因になっているが。ファイル整理をすることも安らぎになった。これもまあなんもしとらんけれど、散らかす一方よりはよっぽど良い。

辛い煙草を吸う。半年に1箱と言っているが、とっくに半年以上経っている。新しいやつも買ってあるがまだ、と思ったけれど、燃えるごみを煙草1本と箱1箱分だけ増やすという方向性を決定付けた喉の痺れだった。

雰囲気は変わる。突然変わる。同じようにいられない。同じようにいようとするみじめな姿しか晒せない。せいぜいそれを客観視していろ。

帰り道、夜空がきれいだった。少しずつ風景を取り込めるようになる。そのままに。本来既視感などに邪魔される余地はない圧倒的景色が、いつもいつも頭上に広がっているはずなのだが、どうしてもその縁、枠が気になってしまう。手垢のつき過ぎた枠も、精神的な枠組みでしかなく、それを打ち破ることは、精神イメージの営みによって達成されてもおかしくないことだ。内面を塗り替える、というよりも、いつでも風が運んできて自然に新しくなっているのを、その方角を、自分自身の中に見出し、広さを感じ、自然に肉体定義が別の場所に向かうような、そんなありかたを模索したい。

悪い癖だと思う。問題が全部クリアできていたとしても、それだからこそ、気を緩めると思わぬところで殴られてしまう。気をつけたい。向くべき感情は、奴への嫌悪ではない。性質が違うという問題があるだけということが一つ。もう一つは、自分を嫌うのではなく、行動が適応しなかった事実をただ静かに、教師信号として処理する。まだ難しいのでもう少し機械的に処理できるようにしたい。

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苦しんでいる自分を画面の中に見つめる。いや、みじめが増強されるだけだが。そこでさらにみじめを感じる自分を画面の中に。意識が及ばない。集中するべきだ。階層化に。

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新幹線に乗って、岡山を通過している。前に小さい子供を持つ3人家族がおり、周りには岡山から乗ってきた人が結構いる。鉄の外殻。自分の文章が気に入っていない。気に入っている瞬間もある。山。プラント。雲。暗転。アナウンスはもう精神の、内層のほう。田園。土地。自分に適応しうる。割と身近にある。いつでも行ける。ベアリングの会社。そんなに向いてはいないだろうと思っていた。やれば何でもできるだろうと思っている。けれど向いていること、できること、何より目の前にあることに目を向けるべきだ。目の前は、精神の内側である。いかなる攻撃も精神の内側からである。感覚は精神の内側。世界は精神の内側。必要な魂の数は一つ。他人は全部ロボットである。精神の内側にあって、入力に対応し出力を提示する。

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山。美しい自然に触れたい。まだ知らない内面を、ただ楽しみたい。暗転と明転。見慣れない形の、塔のような建物。存在しない、1992年頃の文化へのノスタルジーが発火する。背筋を伸ばすと風景が少し近くなる。内面の連続性が少し確かになる。アナログな概念ではないと思うし、文章もかなり遅れている。わずかに並走した時間、すれ違う瞬間に安定な区間がある。つまりはその方法での安定は確定的に一時的なものだから、その理想状態をベースに考えるのは難しい。理想でなくても安定は可能だと思うが。暗転。内面に見出した暗転を応用してみる。

大江山

片付けが下手であるにも関わらず、片付いた環境でないと落ち着かないなどの相反する特性を持ち合わせていることは、ままあるというようなことを考えていた。そう具体的に言うと、変化に弱いくせに変化を求めるというところの話。まあ別にこれに関しては、変化に強くなるためには変化が必要だということから、はなから間違った傾向というわけでもないのだけれど。何はともあれ、そういう相反する特性を自覚しておくことは、強い精神構造を持つためには良いことなんじゃないかと思う。ゲームが下手なのにやり続けるのも似ている?いやそれはそういう「間違いでない」を利用した現実逃避という側面の方が強いだろう。幼い精神を持ち出すのは恥ずかしくないですか?恥ずかしい。恥ずかしいのにするのは、これは訳があって、コンテンツとして昇華することこそが正義という価値観があるからだ。まあこれも言い訳でしかなくなっているのだが。重罪を犯した人間が本当にとることのできる責任があるとしたら、それはそれに至るまでの状況、心理をそのまま記述することだけだ、みたいなことを夏目漱石が言っていたと柄谷行人という人が言っていて(細部は違うかもしれない)、それに影響を受けています。何はともあれ、矛盾を考察することは何かしらの発見になるのではないか、というような例をいくつか挙げることができ、そういう思考のパターンをやっていくことを見出せたので、よかったですね。

hp

昨日よりは体調が良い。良くはないけれど別にいい。ゼミの後はポスター作りをする予定だったが、ゼミからの流れもあって、やりたかったプログラム改修に取り組んだ。自分のペースで進めつつも、周りの意見をよく聞いて反映していたし、それによって結果も出た。作業の引継ぎについても積極的に行い成功している。このあたりはとても良かったと思う。自然な発言で笑いがとれているのも良い。

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明日は反動で悪くなる可能性がありますが、今日ならしていた雰囲気がうまくはまれば上手くいって、人生が好転する流れになるかもれません。そうなるといいですね。最低限の祈りを加えておく、といって具体的行動に及ぼうと思う。これは詩情を生活に溶け込ませる試みで、生活文脈的に突発であり、文字通り文脈的にも突発で、しかしながら文を書いている中で文を書いていることによって自然に生まれたものだ。そういうよくわからないものをやっていく。よくわからないものには論理的に可能性があり、希望だから。

matsui yamate

胃腸が弱っており身体がだるい。朝起きたときからそんな「虚弱」の状態で、普通に一日を終えるとひどく疲れている。まあなんとかなっているが。

今この瞬間がまさに楽観主義の夜明けである。無駄な心配や後悔をしない。それはとりあえずこのあと半年くらいの目標になる。いやそれは違うと書いていて思った。無駄な心配や後悔をしないというのではなく、まず感情の寄る面を楽観、幸福よりにすること。例え話は無理。それでも楽観だからこれが良いブログに見えるんですねって、流石に終わりすぎた、終わらせすぎた感性はどうしようもないねって、何重ループかの楽観を意味も無く辿ってさようなら。